Cats At The Street
2021-12-06T22:06:11+09:00
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Cats At The Street。略して「Cats」なのです(^^)v
Excite Blog
小林もみじ園
http://numataro.exblog.jp/30862945/
2021-12-05T12:17:00+09:00
2021-12-06T22:06:11+09:00
2021-12-05T12:17:50+09:00
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川口市
ということで小林もみじ園に行ってきました。
午後3時過ぎに行きましたが、紅、黄色、橙と色とりどりの紅葉が西日に照らされ、逆光気味に見るととてもきれいに輝いていました。 真ん中は黄色で縁取りが紅という不思議なものも。紅葉が最盛期とあって、紅葉狩りのお客さんもおおぜい訪れ、紅葉以上に賑やかでした。
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スカイラインの歴史 第11部 ゴールなきレース
http://numataro.exblog.jp/29911872/
2020-02-09T12:44:00+09:00
2020-02-09T13:02:41+09:00
2020-02-09T12:44:24+09:00
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スカイラインの歴史
10代目スカイライン(R34) 1998年5月発売(280馬力)
R34型の開発はR33型開発の陣頭指揮をとった渡辺主管が引き続き指揮することになりました。
R33型は大きいのに速い車、という一定の評価は得られたものの、サイズが大きくなったこと、コストダウンの要請に伴うローレルとのプラットフォーム共通化などはファンの反発を招きました。進化はし、洗練されたものの、イメージ的に鮮烈さに欠け、スカイラインらしさは薄まったと見られたのです。
こうした反省から、新型では「スカイラインらしいスカイラインを造ること、日産の看板である走りを一段と光らせること」に主眼が置かれました。
また、売れたのは2ドアばかりだったと言う先代の反省から、新型では4ドアの開発にも力が入れられました。
開発におけるキャッチフレーズは「ベスト・ドライビング・プレジャーの追求」でした。スカイラインらしさを追求し、まず最初に決断されたのが、ホイールベースを短縮するということでした。2ドア、4ドアともに、ホイールベースは55ミリ短縮されました。ボディ全体では4ドアは15ミリの短縮、2ドアはなんと60ミリの短縮を実現したのです。スタイリングにおいては、「スカイラインらしさの追求、本物のスポーツセダン&クーペの具現化、FRらしい走りの実現と、なるべく小さく見えること」が求められました。そして、フロント回りはぐった低められ、ウエッジ感を強調、リアは、伝統の丸目が踏襲されました。こうして贅肉を削ぎ落とし、アグレッシブに生まれ変わったボディは、一目でスカイラインとわかる存在感あふれる車となりました。
肝心の走りに関しては、エンジンを大幅に見直し。従来通りのRB25DE(T)ながら「ネオ・ストレート」と呼ばれるエンジンに生まれ変わりました。そして、2.5ターボはついに280馬力にパワーアップとなりました。
また、タイヤも17インチにサイズアップされました。また、これにあわせブレーキも強化、17インチ用の4ポットキャリパーが装着されました。
そして、ボディは「ドライビング・ボディ」と呼ばれるダイナミックボディ剛性を重視した、世界トップレベルのボディ+シャーシが一体開発されました。
CMも、ヴァンヘイレンの「You really got me」を採用、ハードイメージをアピールしました。そして全面に押し出されたのはセダンです。いまだかつて、セダンの車の宣伝にハードロックが採用されたことはあったのでしょうか。キャッチコピーも「ボディは力だ」というもの。シャーシを映し出してボディ剛性のよさを強調すると言う、とにかく機能アピール重視のコマーシャルでした。
4ドアセダンは、スカイラインの持ち味であるキビキビとした走りを実現しながら、セダンに要求される居住性と実用性をバランスさせました。
5代目GT-R(BNR34)1999年1月発売
1998年の年末が近づくにつれ、5代目GT-Rに関する情報が各誌にスクープされるようになりました。10代目スカイラインにGT-Rがあることは、事前に渡部主管自身の口から公表されていたので、ファンの期待はスクープ情報が入るたびに高まりました。ニュウルブルクリンクでの走行シーン、国内テストコースの走行シーンなどで走る新型Rの精悍な姿はかなりのパフォーマンスを期待させるに充分でした。しかし、そのスクープのされ方に少し疑問を抱かざるを得ない一面もありました。各地でなんの覆面もないまま、いかにも「この形で出します」と言うかのように走るRの姿は、スクープと言うよりは、既に「コマーシャル」であるかのようでした。
当時の日産は経営内容が深刻な状況でした。売れない車をいつまでも売るような余裕はなく、いかにGT-Rがイメージリーダーカーと言っても、売れないままではもはや済まされません。更にエネルギー問題や、環境問題が、GT-Rの様な、高パフォーマンスカーにとって向かい風になりつつあるなか、「スクープ」言う名のCMにかり出されるGT-Rに、私は悲壮感すら感じました。
1999年1月、4年前を思い出させるかのように、5代目GT-Rが「東京オートサロン」で発表されました。
コンセプトは、今までと同様「究極のドライビングプレジャーの追求」でした。あらゆるシーンで最上級の走りを提示し、安心感をベースにした意のままの走りを実現しようというのが開発における目標でした。
スタイリングは2ドアクーペをベースにしながらも、ルーフとドア、トランク以外は専用設計です。ボリュームを増したボンネットフード、大きく口を開けたインテーク。大きく張り出したフロント・リアフェンダー。そして、専用設計となる2枚翼のリアスポイラー。ホイールベースは2ドアクーペと同様55ミリの縮小ながら、ボディサイズは全長75ミリの縮小となりました。全幅は逆に5ミリ拡大。このようにチューンナップされたボディはこれまでのスクープ写真で知らされていたものの、極めてアグレッシブで、R33に対する反省が生かされていると言えます。
バリエーションには先代同様、Vスペックが用意されています。Vスペックで特筆すべきはフロントディフューザー・リアデュフューザーと言われる「アドバンスドエアロシステム」で、ダウンフォースを発生させるためにボディ下部に導風板を装着するという、徹底振りです。
コックピットを空け、室内に入れば、新しくデザインされたシートが目に入ります。3代目、4代目GT-Rと受け継がれてきたモノフォルムシートを基調にデザインを見直し、肩のサポート部を拡大、更にホールドを高めています。又、タコメーターは中央に配置、Vスペックにおいては3000回転までを切りつめ、それ以上を見やすくすると言った気の配りよう。センタークラスターには従来の3連メーターに代わり、「マルチファンクション・ディスプレー」と言われる7項目のデジタルメーター(Vスペックでは9項目)が位置しています。そして、先代でも導入されると言われながら導入されなかったゲドラグ社との共同開発による6速トランスミッション。シフトノブも短く、操作性の良さを感じます。
エンジンルームを空ければ、真紅に塗られたRB26が目に飛び込みます。基本的には従来通りのエンジンではありますが、細部を見直し、ターボもボールベアリング式セラミックツインターボとし、今まで以上にレスポンスが鋭くなっています。
タイヤは245/40/18インチ、ホイールも6本スポークとなり1本当たり1キロの軽量化が図られました。
渡部主管は「最新のスカイラインが最強のスカイライン」と宣言しました。こうしてスカイラインGT-Rは「究極のドライビングプレジャーの追求」に向け、又一歩進化したと言えるでしょう。
と、ここでGT-Rが元々、「レースのためのベースマシン」としての存在であったことを思い出さずにはいられません。R32で大成功したがために、次の世代になりながらも先代を上回る走りを実現するのに時間がかかり、登場が遅れざるを得なかったR33の登場からちょうど4年でのR34Rのデビューは、スケジュール通りとは言えます。しかし、この10年で、時代も、車を取り巻く環境も、レースシーンも変わりました。もはやGT-Rはレースで勝つのが当たり前の存在ではありません。この車はR32で復活したことにより、「レースのためのベースマシン」としての存在から、日産車の代名詞として、最高性能、最高の走りを実現するフラッグシップカーとして、そのアイデンティティを方向修正しました。そして、R34GT-Rの精悍な、マッチョなフォルムは、「スーパーウエポン」であることを何より物語っています。もはや、「羊の皮を被った狼」ではないのです。「最高の走り」と言っても、GT-Rが高性能化するにつれ、その性能を発揮する「一般道」は少なくなり、フルに発揮できるのは、レースシーンにおいてのみとなっていきました。それなのに、売らんかなの装備の数々、そんなGT-Rのあり方に疑問を感じざるを得ませんでした。
2002年、スカイラインGT-Rの最終形、MspecNurが発売。
8月までの期間限定発売となり、8月をもってスカイラインGT-Rは生産終了となりました。
2001年6月、上記MspecNurと順序は逆になりますが、新型スカイラインは「V35型」として登場しました。しかし、そのデザインは永年培われたスカイラインのコンセプトとはほど遠く、又仮に他の新型車として見ても見るに堪えないデザインとなってしまいました。ゴーン体制で大量の新型車が登場しましたが、デザイン・売上共にその中でも最大の失敗作と言えるのではないでしょうか。
V35型のデザインやシャーシは、元々新型レパードとなる予定だったものを、レパードを生産終了したため、スカイラインに流用したと言われています。その丸みを帯びたデザインにスカイラインのアイデンティティは感じられません。
2003年、スカイラインクーペが登場。セダンに比べればまともなデザインとは言えるものの、大型化し、鈍重さは否めませんでした。
このV35型でスカイラインは終わった、と私は実感しました。
そして、2007年12月、日産は「日産GT-R」を発表しました。
「スカイラインGT-R」の名を使うべきかどうか、かなり議論がされたと聞きます。しかし、「日産GT-R」で良かったと私は思います。余りに大型化され、日産自身「スーパーカー」と呼んではばからない車は、かつてのスカイラインGT-Rとは全くの別物と思うからです。
いつか、真のスカイライン復活と喝采を上げられる日が来るまで、私は待ち続けたいと思います。
to be continued
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スカイラインの歴史 第10部 再迷走
http://numataro.exblog.jp/29911866/
2020-02-09T12:36:00+09:00
2020-02-09T12:51:09+09:00
2020-02-09T12:36:05+09:00
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スカイラインの歴史
9代目スカイライン(R33) 1993年8月発売
「卓越した走りの本流グランドツーリングカー」をコンセプトとした9代目スカイランが発売されました。あまりに高い評価を得たR32ではありましたが、確信犯であったとはいえ、「狭い」がゆえ、特に4ドアが売れなかった事の反省から、ボディを大幅に大きくしました。ついにスカイラインは全車3ナンバーとなったのです。ボディの大型化により、4ドアセダンには豊かな居住性と快適性が備りました。しかし、2ドアは、当初ホイールベースを4ドアより短くする予定だったのに、最終段階になってコストダウンのため、4ドアと同一へと変更、このため、写真でも分かるように、2ドア車のドアから後ろは何とも間延びしたデザインとなってしまったのです。デザイン的にも、なぜこんな不細工なのかと首を傾げたくなるようなフロント・リアデザイン。
走りの性能や剛性・居住性はR32の反省から向上したとは言え、あまりに大きく、重々しく、不細工になったスカイラインに対してファンは「やはりスカイラインはR32までか」という思いを強くします。
キャッチフレーズは「あした、スポーティに生きる」、俳優のジャン=マルク・バールとモデルの田村翔子をイメージキャラクターに採用、山下達郎の「ジャングル・スイング」(後に「悲しみのJODY」)をCMソングにソフトなイメージを演出しました。
一方、こうしたソフト&ワイドな、本来のスカイラインとはコンセプトを異にするR33型は不評を極めることとなりました。
1995年1月4代目GT-R発売(R33)
東京モーターショーから1年2ヶ月後、「東京オートサロン」にて遂に新型GT-R発表。発表の場が「改造車のショー」でした。ファンの期待と不安を背負ってのデビューでしたが、デザインはモーターショー出品車に比べ大幅に精悍さを増しました。
新型GT-Rの使命は、先代R32GT-Rを越える車となり、「究極のドライビングプレジャーを追求した、世界最速の量産車」となることにあります。そして、初代、先代に引き続き、新たなる神話を生むことによってのみ、GT-Rであり続けることが出来るのです。R32GT-Rを越えたことを演出する舞台に、ドイツのニュウルブルクリンクサーキットのオールドコースが選ばれました。ここで8分を越えるラップタイムを刻むことが目標とされたのです。先代は初期型で8分20秒、最終型で13秒でした。8分を越えるのはジャガーくらいと言われた難コースにおいて、新型GT-Rは7分59秒を叩き出したのです。
後にこのラップタイムはほとんどレース仕様とも言えるようなチューンドマシンであることが判明、神話・伝説と言うよりは「作り話」のようなものであると揶揄されるのですが、新型GT-Rはこの「マイナス21秒ロマン」をCMのキャッチフレーズにまでし、いかに先代を上回るポテンシャルを有しているかを訴えました。まあ、それだけ先代が偉大だったと言うことでしょうか。
CMと言えば、GT-Rがコマーシャルに登場すると言うこと自体、当時は妙な感じだったものです。
先代のピーキーなフィーリングがなくなってマイルドになったとか、重く・大きくなって鋭さがなくなったとか、デブになったとか、96年以降勝てなくなったとか言われましたが、様々な点において、新型GT-Rが先代を上回っていたことは事実です。ベースモデルが既に先代VスペックⅡ並のポテンシャルを備え、更にこれを上回るVスペックを設定。これに加えN1仕様も用意するなど、戦闘態勢は万端でした。そもそも、先代GT-RはグループAの為のベース車でしたが、新型はN1レースのベース車。つまり、ノーマルでのスペックが高くないと戦えないのです。このために各部に手が加えられました。エンジン制御のコンピュータは8ビットから16ビットへの性能アップにより演算機能向上。最大トルクは1.6Kg向上。アテーサETS「プロ」の採用。このほかにも細部にわたって改良が重ねられ、新型GT-Rは大きな進化を遂げました。しかし、マイルドになり、洗練されていくGT-Rに、「GT-Rはもっと荒々しい車でなかったか」という疑問もわき上がってきたのです。
それにつけても新型GT-R、エンジン、サスペンション形式、シート形状、アテーサやHICASなどの先進機器etc...、様々な点において、先代を踏襲していたことが、いかに先代の設計が優れていたかを何より物語っています。
1996年1月、33型の大きな反省と共にマイナーチェンジが施されることとなりました。CMも牧瀬里穂による「男なら乗ってみな」という過激なキャッチフレーズ、CMソングにはハードロックの「BORN TO BE WILD」が採用され、スポーティなイメージを作り出すのに必死でした。
マイナー後の2ドアと4ドア
スタイリングに対する悪評がこたえたのか、デザインが大幅にスポーティとなった新スカイラインが登場しました。CMのキャッチフレーズも牧瀬里穂による「男なら乗ってみな」という挑発的なもの。マイナー前を買った人はどうなるの、と言うくらいのイメージチェンジでした。(マイナー前のCMは山下達郎「アイラービュー]というもの) このことは、日産に迷いがあったことの何よりも証といえます。この代は失敗だったな、間違いなく次は小さくなるな、とファンが思わないわけがありません。
なお、GT-Rのスタイリングは基本的には変わりませんでしたが、フロントバンパーにエアインテークが追加。更に精悍さが増しました。
1997年10月 オーテックジャパンが4ドアGT-Rを発表。
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スカイラインの歴史 第9部 栄光の復活
http://numataro.exblog.jp/29911847/
2020-02-09T12:19:00+09:00
2020-02-12T07:26:06+09:00
2020-02-09T12:20:01+09:00
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スカイラインの歴史
8代目スカイライン(E-HCR32)1988年5月発売
1988年、8代目スカイラインがついに発売。7代目スカイラインクーペが発売されて3年ほどでのスピード・フルモデルチェンジでした。開発スタッフの、これまでのスカイラインに対する不満(反省?)と開発に向けての勢いを感じることが出来ます。キャッチフレーズは「超感覚スカイライン」、イメージキャラクターを採用せずCMソングには「哀愁のランバダ」(そう言えばランバダはやりましたね)が使われました。
8代目スカイラインの大きな特徴は、下記の2点にあるといえます。
1、ボディサイズを大幅に縮小する。
2、数々の最新メカニズムを惜し気もなく投入し、走りの性能とテイストを世界最高水準にまで高める。たとえば、4輪マルチリンクサスペンション、SUPER-HICAS、アルミキャリパー対向ピストンブレーキなどの先進機器類が投入されました。最上級車種、2000GTS-tはセラミックターボを搭載し215馬力を発揮。4ドア車も「4ドアスポーツセダン」と呼称するなど、いかにスポーツイメージにこだわっていたかがわかります。
こうしてスカイライン、特にGTS-tタイプMは、「真のドライビングプレジャー」を持ったFR車となりました。発売後、「狭すぎる」といった評がよく聞かれましたが、そもそも狭く造っているのです。
3代目 GT-R(BNR32)1989年8月 発売
1989年8月、満を侍してGT-Rが発売されます。まさに16年半振りの復活です。
新型GT-Rは、復活を待ち漕がれたファンの希望に100%応えるものとなって登場しました。
GT-Rの使命は第一に、初代GT-Rがそうだったように、レースを席巻して再びGT-R神話を蘇らせること。GT-Rは、レースのためのベース車であると言う思想が貫かれています。そして、もう一つは、全日産車のフラッグシップカー、技術的シンボルとして君臨すること。
専用エンジン(RB26DET)はRB20DEをベースにはしながらも、全く別ものと言えるほどの手を加え、徹底的にチューンが施されました。
排気量は2600CC(2568CC),セラミックターボを2基装着、280馬力を絞り出しましたが、レースにおいて600馬力を可能にするための様々な手当がされており、市販車はいわば「ディチューン版」といえました。排気量が中途半端なのも、グループAでの重量制限で、3Lターボ車に対するアドバンテージを確保するためです。そして、GT-Rに与えられた使命を果たすべく、実に多くの機能が盛り込まれました。幾つか具体的に列挙すると、一目で分かる超大型インタークーラー、駆動状況に応じて適切に前輪にも駆動力を配分する電子制御トルクスプリット型4輪駆動システムATTESA E-TS、スーパーHICAS、4輪ABS、クーリングホール付大径ベンチレーテッドディスクブレーキ、鍛造アルミホイール、16インチ225・50タイヤ、4輪マルチリンクサスペンション、アルミ製ボンネットフード&フェンダー、6連スロットルチャンバー、ナトリウム封入中空エキゾーストバルブなど、採算割れを覚悟の上でレーシングマシン並みのスペックを盛んだのです。走りをサポートするシートもレーシングライクなバケットタイプ。ステアリングもとても純正とは思えない優れたデザイン、インパネ周りもGTS系を基調にしながらも、3連メーターを追加し、タコメーターを最高1万回転としたスパルタンなもの。車全体に「走り」のイメージが溢れています。
スカイラインGT-R GROUP A
GT-R発表と同時に公開されたレーシングバージョンの精悍な姿は、ファンを驚喜させました。そしていよいよ新型GT-Rは1990年のシーズンから全日本ツーリングカー選手権レースに出場し、全レースを制覇、翌91年以降もグループAで連勝を重ね、グループAの規定がなくなるまでに29戦29勝、29戦予選1位と言う不敗神話をつくりました。ライバルを失い、グループAは事実上GT-Rのワンメイクとなってしまったため、1994年からはグループAに代わり全日本ツーリングカー選手権(JTCC:2L以下、NAエンジン)、全日本GTカー選手権(JGTC:旧グループA)が行われることになりましたが、その後もGT-Rは活躍を続けます。グループAだけではなく、N1耐久レースにおいてもGT-Rは活躍しました。N1はあくまで市販車をベースにして戦うレース。改造範囲が狭いだけ、市販車の性能が問われます。
レースが進むにつれてGT-Rの欠点が指摘されるようになります。それは主にブレーキ容量の不足、シャシーへの負担など、4WD化に伴うヘビーボディから起因するものでした。このことが後のマイナーチェンジでの改良、R33型の開発に生かされることになります。
1991年7月GT-R マイナーチェンジに伴い、N1ベースモデル発売。
1992年2月GT-R Vスペック発売。イタリアブレンボ社との共同開発によるブレーキ、BBS17インチホイール(RG)等を搭載。N1レースでの教訓が市販車両にも生かされることになりました。
1993年8月R33型スカイライン発売。(第10部にて詳述)
1993年10月 東京モーターショーにてR33型GT-R参考出品。
ぼってり太ったボディ、リアウイングなどは賛否両論でした。
1994年2月GT-R VスペックⅡ発売。タイヤは225/50/17インチから245/45/17インチにサイズアップ。この時点で、GT-Rはまだ、フルモデルチェンジされていませんでした。
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スカイラインの歴史 第8部 迷走のR31
http://numataro.exblog.jp/29911837/
2020-02-09T12:08:00+09:00
2020-02-09T12:52:22+09:00
2020-02-09T12:08:50+09:00
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スカイラインの歴史
7代目スカイライン(R31型) 1985年8月発売
RE20型エンジン(1998CC)搭載 210馬力
「やわらかい高性能」「ソフトマシーン」「都市工学」というキャッチフレーズで4ドアハードトップ・セダンのみがまず登場しました。
高級スポーツサルーンという位置付けだったのですが、これは「マークⅡ三姉妹」に代表される巷間のハイソカーブームに乗っかろうという魂胆が見え見えでした。
エンジンは新開発のRB20型(165馬力)を採用。永年続いたL20型に別れを告げることになりました。ターボを搭載したRB20DET型は210馬力を発揮。ケンメリGT-R以来の6気筒DOHCエンジンを搭載し、ファンを大いに期待させましたが、実際はスペックほどのパワー感もなく、さりとてハイソイメージも今一つと言う、中途半端な車でした。HICASという、後輪操舵システムを採用したものの、走りを向上させるほど優れたシャーシでもないため、大きな効果は見られませんでした。何よりも2ドアがないと言うことは、ファンを落胆させるものだったのです。確かに、元々スカイラインは4ドアでした。しかし、きびきびとした走りも実現できずに、周りで4ドアがはやっているからと言って4ドアのみを先行デビューさせたことに、ファンはもはやスカイラインの必然性はないと感じました。
1986年5月、2ドアクーペGTS、
セラミックターボ搭載のGTSターボ(E-HR31型)を発売。
4ドアで落とした評判を回復させるべく、スポーツイメージを押し出してのデビューとなりました。キャッチフレーズは、「そのとき、精悍」。イメージキャラクターは、岩城晃一を採用、「エリーゼのために」をハードロックにアレンジし、ハードなイメージを前面に押し出しました。
エンジンフィールも別物ではないかと言われる位、4ドアに比べ向上しました。エンジンの出力表示がグロスからネットに変更となりましたが、GTSで140馬力、ターボは180馬力を発揮。翌年のマイナーチェンジでは各10馬力のパワーアップが図られ、4ドアに比べスポーツイメージが強くパワーもある2ドアは人気を博しました。しかし、代替わりの度に大きくなるスカイラインに、果たして、これでいいのか、これがスカイラインのあるべき姿なのかと、ファンはむろん、開発スタッフも疑問を感じるようになってきたのです。
スカイラインGTS-R
1987年8月のマイナーチェンジと同時に発売されたのがGTS-Rです。
これはグループAツーリングカーレースのためのベース車両として発売されたもので、販売台数も800台に限定されました。RE20DETをベースにギャレット製のTO-4型大径ターボを搭載し、210馬力を発揮しました。
レース用車両が発売される、というニュースに、ファンはGT-Rの復活を期待しましたが、そうは成りませんでした。このことは、GTS-Rが、レース用マシンとして十分なものではないことを何より物語っていました。
まだ、この程度ではGT-Rを名乗れない、ファンはGT-Rの偉大さを改めて感じるとともに、GT-Rがまだまだ遠いところにあることを痛感せざるをえなかったのです。
しかし、このGTS-Rで日産は多くのノウハウを蓄積しました。次のステップに向けて。
7代目スカイライン開発途上、永年指揮を取って来た桜井真一郎氏が急病により降番した為、伊藤主管に交代となりました。伊藤主管はR31の反省を込めて、8代目スカイラインの開発では、スカイラインの原点に帰り、真のスカイラインスピリットをもった車をつくることを目指しました。
それは、走りの性能を究極にまで高め、走りのテイストを追求することによって到達する、究極のスポーツセダンの姿に他なりません。
スカイラインがハイソカーなんぞであってはならない、と言う反省があったのです。
時はバブル絶頂期、日産にはお金もありました。ヒト・モノ・カネを惜しげもなく投入し、8代目スカイラインの開発は進められていったのです。
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スカイラインの歴史 第7部 復活に向けた第一歩
http://numataro.exblog.jp/29911826/
2020-02-09T11:59:00+09:00
2020-02-12T07:10:58+09:00
2020-02-09T12:00:00+09:00
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スカイラインの歴史
6代目スカイライン (R30型)
1981年4月 発売。1988CC 125馬力
ポールニューマン(レーサーとして’79ルマン準優勝経験者)をキャラクターとして起用、「ニューマンスカイライン」ともいわれました。3代目に続き「愛のスカイライン」をキャッチフレーズにしていました。CMソングも洋風で、マキシン・ディクソン「Best way to your heart(愛のスカイライン)」バートバカラック!「雨にぬれても」でした。
ボディでは、先代まで続いたサーフィンラインを廃止、デザイン面でも思いきったウエッジシェイプとなりました。ボディサイズも抑えることにより、スポーツイメージと軽快感を打ち出しました。
しかし、6代目になっての最大の変化は、最強モデルRSを登場させることにより、GTのスカイラインとしての存在感を明確に打ち出したことにあります。
1981年10月 2000RS発売
FJ20F型エンジン搭載 1990CC 150馬力
RSは、久しぶりに日産が開発したDOHCエンジンを搭載しました。しかも4バルブで。これは2バルブで「ツインカム」と名乗り続けるトヨタに対し、「技術の日産」が本物を見せつけたと言え、パワーと言えばターボ一辺倒だった国産車のエンジン技術に一石を投じたと言えます。なんとCMでは、「4バルブなしにDOHCは語れない」と、かつて2バルブ風情でツインカムを誇ったトヨタを煽ったのです。
RSの、厳しい排気ガス規制を乗り越えてのハイパワー実現は、4バルブDOHCエンジンを完成させた日産の技術力もさることながら、ECCSと呼ばれる電子制御燃料噴射システムの完成によるところが大きいと言えます。ようやく、排ガス規制をクリアしつつもハイパワーを実現する技術が完成したのです。そして、ここにライバル各社を巻きこんだハイパワー競争が始まるのです。
S20型以来の4バルブ高性能エンジンの登場はGTとしてのスカイライン復活を高らかに告げるものでした。しかし、GT-Rを名乗ることは無論、GTの名を冠するここともできませんでした。なぜならば、スカイラインにとってGTとは、6気筒エンジンを搭載しているマシンでなければならなかったからです。FJ型エンジンは4気筒だったのです。
1983年2月、2000ターボRS発売(FJ20E・Tエンジン搭載)
我が国初のターボ付4バルブDOHCエンジンは190馬力を発揮しました。宣伝でも「史上最強のスカイライン」とうたわれました。
1982年7月、スカイラインは、シルエットフォーミュラレースに出場、久しぶりにレースに戻ったスカイラインは初戦を優勝で飾り、見事な活躍を見せました。このスカイラインには、FJ20型エンジンにターボを搭載していました。このことから、スカイラインRSへのターボ搭載が期待され、2000ターボRSに至ったのです。
1984年2月、2000ターボ インタークーラーRS-X発表。
鉄仮面と呼ばれたスパルタンな風貌に205馬力のパワーで、RS-Xはハイパワー競争の頂点を極めるものとなりました。
しかし、次から次へとマイナーチェンジを繰り返しパワーアップを図るやり方は、オーナーを裏切ることとなり、不評も買ったのです。いささか過熱気味のパワー競争の弊害とも言えます。今のパソコンと同じですね。
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スカイラインの歴史 第6部 排ガス規制の時代
http://numataro.exblog.jp/29911788/
2020-02-09T11:27:00+09:00
2020-02-09T12:53:06+09:00
2020-02-09T11:27:24+09:00
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スカイラインの歴史
4代目スカイライン(C110型)
1972年9月発売 1998CC 130馬力
4代目では、「ケンとメリー」をキャラクターとして採用、イメージ戦略が成功して人気車種には成りました。先代ではまだ2代目スカイラインの面影を残していましたが、今回は先代の面影を全く感じさせないアメリカンなスタイルが特徴となりました。
ケンメリスカイラインでは、丸形のテールランプが復活しました。これ以降、歴代スカイラインには丸形のテールランプが必ず採用されることになります。(一部1800CCなどに例外あり)
2代目GT-R 1973年1月発売 (KPGC110)
1989CC 160馬力
3ヶ月後、新型GT-Rが発表されました。4輪ディスクブレーキ、175・14インチのラジアルタイヤ(!)を装着、各フェンダーにビス止めされたオーバーフェンダーや、フロントグリルは非常に迫力あるものでした。しかし、車重は45キロ重くなり、ホイールベースも40ミリ長くなるなど、レースには不向きでした。ガソリンタンクも旧型は100L(!)あったのに対し、新型では55Lまで容量が下げられました。その上、折りから強化された排ガス規制に対応することができず、197台生産されたところで生産中止となり、ケンメリGT-Rは消滅してしまったのです。これ以降、次のGT-R登場まで、ファンは16年半の歳月を待つことになります。
第19回モーターショーで参考出品された、レースバージョン。2000GTをベースにしていました。ドライバーは高橋国光氏。(この時点では、GT-Rは発売されていなかったのです)ゼッケン73は、翌73年のレースシーンを意識していたとしか思えませんが、結局レースでこの勇姿を拝むことは出来ませんでした。
レーシングバージョンの発表は、レースへの復帰をファンに期待させましたが、新型GT-Rがサーキットに登場することはついにありませんでした。73年に入って、折からの排ガス規制に対処すべく、日産はワークスを解体させたのです。レースのためのベース車であるべきGT-Rがレースに出ないと言うことは、そのアイデンティティを失うに等しいものであるといえ、生産中止に追いやられたのも無理はありません。
マイナー後のHTタイプ
「ケンとメリー」(初代は陣内ジミーとダイアン・クレイ、2代目は前田俊彦とテリー・ミラー)のキャラクターは大人気。CM曲バズの「ケンとメリー・愛と風のように」は30万枚を越えるヒット。ファッション性に重点をおき、人気の面では成功と言えたケンメリスカイラインですが、実力の面では大きく後退したといわざるを得ません。そして、それ以降スカイライン、いや、日本車にとって苦難の時代がしばらく続くことになります。排ガス規制の時代です。
5代目スカイライン (HGC210型)
1977年8月発売 115馬力
スカイラインは日本の風土が生み、日本を代表する車であるとの観点から「スカイラインジャパン」というキャッチコピーを採用、先代に続き人気を博します。先代に続き男女2名をイメージキャラクターに採用。なんとマイケル富岡と朝比奈マリヤ(後期は黒沢浩とテリー・ミラー)でした。CMソングにはラジ「愛はたぶん」、チューリップ「I love Japan」が採用されました。
1979年7月にはヘッドランプを4灯式から角型2灯型に変更、デザインを充実させます。しかし、同じ1977年に先代に続き(2バルブ)ツインカムエンジンを積みデビューしたセリカのキャッチコピーで「名ばかりのGTは道を開ける」「ツインカムを語らずに、真のGTは語れない」と言われてしまい、スカイラインの名誉を大きく傷つけることになります。
このころのスカイラインは、4バルブツインカムを捨て、鈍重で、ボディばかりが大きく、とても走りを感じさせる車ではありませんでした。スカイラインは人気ばかりではいけない。走りに魅力があってこそ、スカイラインであり、真のGTである。こうした反省から久しぶりに速いスカイラインが登場しました。ターボGTの登場です。 1980年4月、2000ターボGT(KHGC210)発売。
アメリカのギャレット社製のターボチャージャーを搭載し、145馬力を発揮。大きくパワーアップしました。ターボの導入は、エンジンのハイパワー化を容易にしました。Tシャツにも「TURBO」、サンダルにも「TURBO」、猫も杓子もターボの、ターボ時代の到来です。
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スカイラインの歴史 第5部 3代目スカイラインの登場
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2020-02-09T11:12:00+09:00
2020-02-09T12:53:28+09:00
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スカイラインの歴史
3代目スカイライン(C10型)1968年7月発売
画像は1968年9月発売の2000GT(GC10)。
1998CC 105馬力。
日産は、ついにスカイラインのフルモデルチェンジを行いました。「日産」として初めてのスカイラインであり、歴史に残るL20型エンジンを搭載しての登場でした。
C10系は「愛のスカイライン」として親しまれました。そして、ファミリーユースとスポーツ性の両立させるという開発コンセプトを見事に昇華し、より快適なグランツーリスモ(GTカー)へと成長しました。
ボディに流れる独特のラインは「サーフィンライン」と呼ばれ、スカイラインのシンボルとなります。
スカイライン2000GT-R(PGC10型)
1969年2月発売 1989CC 160馬力
1964年グランプリでポルシェに敗北した雪辱をはらすために開発された、レーシングマシンR380に搭載されていたGR8型エンジンの仕組みを生かし、量産化されたエンジンS20型エンジンを積んでデビューしたのがGT-Rです。
66年、67年と日本グランプリを制してGTカーとしての地位を不動にしたものの、翌68年にはトヨタ1600GTに敗北。日産はレースに勝てるスカイランの開発を進めていたのです。
GT-Rはレースで勝つためのマシンであり、「R」はレースを意味していました。GT-Rというグレードはレースのためのベース車であり、単なる市販車の1バージョンではないのです。ここが他社が付ける「R」とは根本的に異なるところです。
GT-Rに搭載されたS20型の最大の特徴は、4バルブDOHCであったことです。これは、6気筒エンジンとしては国産初のメカニズムでした。トヨタも「ツインカム」エンジンを採用してはいましたが、2バルブであり、メカニズムの複雑さはS20型に及びもつきません。ホンダも4バルブエンジンを採用した車を発売していましたが、せいぜい500CCから800CCまでの小型エンジンです。今では珍しくない4バルブDOHCも当時は大変少ないもので、S20型エンジンだけで1台車が買えたほど高価なものでもありました。そして、このエンジンは、GT-R専用でした。後にフェアレディZ432にも搭載されることにはなりますが、エンジンまで専用に開発する、この思想がGT-Rの「R」たるゆえんです。
なお、S20型はR380に搭載されたGR8型の「ディチューン」版という言い方を良く耳にしますが、正確な言い方ではありません。エンジンそのものは全く別物だからです。
こうしてGT-Rによる活躍、栄光の50勝に向けての神話が始まるのです。
GT-Rはデビュー戦において辛勝、その後は順調に勝ち星を重ね、快進撃を続け、1972年3月に50勝目を上げます(後述)。GT-Rは「勝って当たり前、負ければニュースになる」とまで言われたのです。双葉山みたいなものですね。
尚、時々「50連勝」と言うのを見かけますが、「連勝」は49までで、一戦負けた次のレースで勝ち、50勝となったのです。
レースシーン
1970年10月 ハードトップ追加。(KPGC10)
GT-Rはハードトップのみとなります。「ハートのあるハードトップ」をキャッチコピーにしていました。
ハードトップの採用に伴い、ホイールベースは70ミリ短縮、これによりコーナリング性能も向上し、レースにおけるアドバンテージとなりました。
1971年9月 ハードトップ2000GT-X発売(130馬力)
記念すべき第一回カーオブザイヤーを受賞しました。
1972年3月 70年に、ファミリアによりレースに参入してきた東洋工業(マツダ)は、その後カペラ、サバンナRX-3を投入し、力を付けてきました。1971年12月に開催された第6回富士ツーリスト・トロフィーレースでは、サバンナに敗退、連勝は49までとなりました。
しかし翌年3月20日、、富士グランチャンピオンシリーズ第1戦においては、暴風雨の荒れ狂う中、GT-Rと、トヨタ1600GTとサバンナが入り乱れての戦いとなりました。しかし、高橋国光駆るゼッケン15番ラインがブルーのGT-Rは、風雨をものともせず勝利。このレースでついに50勝を飾るのです。
このころになると、GT-Rは足周りの良さとドライバーの腕では勝るも、パワーの面ではロータリーに追いつかれていたようです。
1972年5月富士スピードウエイで開催された日本グランプリにおけるツーリングカーレースにおいて、サバンナ・カペラを投入してきたロータリー勢にGT-Rは完敗。その後も、勝利を収めることもありましたが、苦戦を強いられ、10月10日のレースでロータリー勢の後塵を拝して以降、日産はワークス参戦を断念したのです。
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スカイラインの歴史 第4部 R380の登場
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2020-02-09T10:28:00+09:00
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2020-02-09T10:28:33+09:00
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スカイラインの歴史
昨年のグランプリにおいて活躍した54A型にウエーバー製キャブレターを搭載。
125馬力を誇りました。
又、フロントディスクブレーキを採用、バッジも歴史の出発点と言える赤バッジの登場です。
この年、プリンスは、ポルシェ904との戦いを教訓に開発されたR380によりグランプリ制覇を期しましたが、この年はグランプリが中止されてしまい、結局翌年(1966年)の富士スピードウエイにおける第3回グランプリに持ち越しとなります。
NISSAN R-380
105馬力のエンジンを乗せたGT-A発売。
同時に2000GTはGT-Bと称されることになりました。
いわゆる、「54B」(ゴーヨンビー)の登場です。
54B型の「赤バッジ」に対し、「54A」型は「青バッジ」でした。
1965年9月SKYLINE 2000 GT-B(後期型)
1966年5月第3回日本グランプリでは、スポーツカーレースでR380が優勝、特殊ツーリングカーレースでスカイラインが優勝、プリンスの技術力を強烈にアピールしたのです。
1966年8月プリンスは日産と合併します。
1967年5月第4回日本グランプリでは、ポルシェにR380Ⅱが善戦するも惜敗。しかし、グループ2ツーリングカーレースにおいては、スカイランがライバル不在の圧勝を遂げました。
R380Ⅱ
1968年5月第5回日本グランプリでは、トヨタの「トヨタ7」VS日産「R381」&「R380Ⅲ」の戦いは、日産R381の勝利で終わり、日産は王者の地位を取り戻しました。しかし、ツーリングカーレースにおいて、ついにスカイランがトヨタ1600GTに破れてしまいました。他社も技術力を上げてきており、もはや5年前のボディでは勝てなくなっていたのです。しかし、日産は新型車の開発を着々と進めていました。
R381
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スカイラインの歴史 第3部 レースの時代
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2020-02-09T10:09:00+09:00
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スカイラインの歴史
スカイラインGT(S54A-1型)
(画像はS54-B型)
1964年5月 発売
1988CC 125馬力
スカイラインGTは、5月に行われる第2回日本グランプリのGTカーレースのために発売されました。
この車が生まれた背景には、第1回日本グランプリでのプリンス惨敗があります。前年の1963年、鈴鹿サーキットで開催されたこのグランプリにおいて、プリンスはグロリアとスカイラインを送り込むも、トヨタ、いすゞ、日産に太刀打ちできず、グロリアでようやく9位という惨めな結果に終わりました。この惨敗にスタッフは奮起、レースに勝てる車で次のグランプリに挑むことになったのです。
新型スカイラインのエンジンでは力不足ということで、当時のグロリアの6気筒エンジンを積み込むこととなりました。しかし、いかんせんエンジンマウントが狭い。そこで、ボディを20センチ延長させ、無理矢理6気筒エンジンを乗せることになりました。信じられないような話ですが、当時はこんな技も通用したのですね。今では伝説となっている逸話です。
第2回日本グランプリにおいて、スカイラインGTはポルシェカレラ904GTSと互角の戦い(上写真)を演じ、総合2位に立ちました。日本のファミリーカーが世界を代表するレーシングカーを一時ではあるが抜いた、と言うドラマにカーファンは驚喜。活躍するスカイラインを東京新聞は「羊の皮を被った狼」と表現しました。「スカイライン神話」の始まりです。
レース以降、この車を買いたいと言う注文が殺到しましたが、あくまでレース用のマシンとしてホモロゲーションを取得するために100台しか作ってなく、一般にはほとんど販売されずじまいでした。
このスカイラインGT以降、6気筒エンジンを搭載するスカイライン車種にGTの名を冠する歴史が始まるのです。そしてファンはスカイラインのことをいつしか「スカG」と呼ぶようになりました。なお、日本でGTの名を冠した車はこれが初めてです。つまり、当時GTと言えば、スカGだったのです。
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スカイラインの歴史 第2部 スカイライン史の始まり
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2020-02-09T10:03:00+09:00
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2020-02-09T10:03:44+09:00
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スカイラインの歴史
2代目「スカイライン1500」(S50型)
1963年9月発売 1484CC 70馬力
これまでの高級車イメージから、グロリアとの差別化を図るためファミリーカーとしての再デビューです。
この頃からサラリーマンが自分用にクルマを買える「マイカー」時代となり始め、スカイライン自身も大きな飛躍を迎えることとなったのです。狭義の「スカイライン」は、この2代目から始まると言えるかもしれません。
2代目スカイラインは、メンテナンスフリーを基本設計とし、シャシーにも3万kmまでは「ノーグリース」(無給脂)を謳い、その技術力やトラブルのなさでユーザーを魅了しました。今では当たり前のことですが、当時は他に「ノーグリース」を謳う車はありませんでした。
又、初代において一時検討されたものの採用には至らなかった丸目のテールランプを採用、丸目の歴史が始まります。(次の代で一旦は途絶えますが)
初代スカイラインでサスペンション開発担当だった桜井真一郎氏は、2代目スカイラインから開発主査となり、スカイライン開発の指揮をとることになります。彼の車に対する夢と情熱が、以降のスカイライン神話を生むことになるのです。
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スカイラインの歴史 第1部 スカイライン前史
http://numataro.exblog.jp/29911662/
2020-02-09T09:54:00+09:00
2020-02-09T12:55:27+09:00
2020-02-09T09:54:53+09:00
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スカイラインの歴史
初代スカイライン(ALSI-1型)
1957年4月発売 富士精密工業製作
1484CC 60馬力
最高速度 125キロ
最初はヘッドランプが2灯式でしたが、1960年2月に4灯式に変更。(国産車初!)
高級車としてのデビューでした。
1961年2月 富士精密工業→プリンス自動車工業に社名変更
1961年5月 BLSID-3型スカイライン1900にマイナーチェンジ。
1900CCエンジン(1862CC)を搭載し、91馬力を発揮しました。
スカイラインスポーツ(LRA-3・R21A型)
1862CC 94馬力
1960年11月、第42回トリノショーにてデビュー。
イタリアのカロッツエリア「ミケロッティ/アレマーノ」の
手によるデザインが美しい。クーペとオープンカーがあります。
1962年4月発売開始しましたが、クーペで185万円と
言う値段はブルーバードが3台が買える値段。
イタリア仕込みのボディはあまりに繊細でラインに乗せられず、
手作りにより生産したため、非常に高価なものとなり、
販売されたのはたったの53台でした。
1962年9月スカイラインスーパー(S21型)が登場。
フロント回りがマイナーチェンジされ、次のS50系に繋がるデザインとなります。
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春到来
http://numataro.exblog.jp/24277868/
2015-03-23T21:58:00+09:00
2015-03-23T21:58:41+09:00
2015-03-23T21:58:41+09:00
sk_gtr
北区
昨日、ソメイヨシノの様子はどうかな、と思って赤羽界隈を散策してみました。駅前の一番街に入ったところの松屋前で見かけたのがこのトラです。 繁華街をウロウロしている割には警戒心前回で私のことを睨んでいました。
赤羽は今、テレ東の番組の舞台にもなっているせいか、以前にも増して
人通りが多くなっているように思います。
朝から営業で有名な「まるますや」は、10人位が行列を作って順番待ちをする事態。
ひょっとしたら今は赤羽ブームなのかもしれません。
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頭隠して尻隠さずネコ
http://numataro.exblog.jp/23825812/
2014-12-03T12:19:20+09:00
2014-12-03T12:28:56+09:00
2014-12-03T12:28:54+09:00
sk_gtr
豊島区
寒くなる前のことですが、いつもネコがうろうろしている東池袋の水天宮を通りかかったところ、何やらネコの尻尾を発見。
正しく頭隠して尻隠さずネコです。顔を拝まなきゃ、と言うことで近づいてみました。
ネコは私に気付いてしまいました。
私も逆方向から回り込みましたが、中々カメラ目線になってくれません 。
真正面からカメラを向けてもこの通り明後日の方向を向いてます。余程寝てたのを起こされて機嫌が悪いのでしょうか。]]>
P助さんが救ったネコ
http://numataro.exblog.jp/23775560/
2014-11-22T20:36:39+09:00
2014-11-22T20:42:59+09:00
2014-11-22T20:42:58+09:00
sk_gtr
埼玉県
捨てられていたのか、死にそうな位弱っていたそうです。
必死の介抱でなんとか生き返ったようです。
今はこんなに元気になりました。
エリーちゃんと名付けられました。
元気に大きくなって欲しいですね。
P助さん.ありがとうございました。]]>
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