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小林もみじ園

植木の町川口には様々な植樹園がありますが、紅葉が最盛期、
ということで小林もみじ園に行ってきました。
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午後3時過ぎに行きましたが、紅、黄色、橙と色とりどりの紅葉が
西日に照らされ、逆光気味に見るととてもきれいに輝いていました。
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真ん中は黄色で縁取りが紅という不思議なものも。
紅葉が最盛期とあって、紅葉狩りのお客さんもおおぜい訪れ、紅葉以上に賑やかでした。


# by sk_gtr | 2021-12-05 12:17 | 川口市

スカイラインの歴史 第11部 ゴールなきレース

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10代目スカイライン(R34) 1998年5月発売(280馬力)

R34型の開発はR33型開発の陣頭指揮をとった渡辺主管が引き続き指揮することになりました。
R33型は大きいのに速い車、という一定の評価は得られたものの、サイズが大きくなったこと、コストダウンの要請に伴うローレルとのプラットフォーム共通化などはファンの反発を招きました。進化はし、洗練されたものの、イメージ的に鮮烈さに欠け、スカイラインらしさは薄まったと見られたのです。
こうした反省から、新型では「スカイラインらしいスカイラインを造ること、日産の看板である走りを一段と光らせること」に主眼が置かれました。
また、売れたのは2ドアばかりだったと言う先代の反省から、新型では4ドアの開発にも力が入れられました。
開発におけるキャッチフレーズは「ベスト・ドライビング・プレジャーの追求」でした。スカイラインらしさを追求し、まず最初に決断されたのが、ホイールベースを短縮するということでした。2ドア、4ドアともに、ホイールベースは55ミリ短縮されました。ボディ全体では4ドアは15ミリの短縮、2ドアはなんと60ミリの短縮を実現したのです。スタイリングにおいては、「スカイラインらしさの追求、本物のスポーツセダン&クーペの具現化、FRらしい走りの実現と、なるべく小さく見えること」が求められました。そして、フロント回りはぐった低められ、ウエッジ感を強調、リアは、伝統の丸目が踏襲されました。こうして贅肉を削ぎ落とし、アグレッシブに生まれ変わったボディは、一目でスカイラインとわかる存在感あふれる車となりました。

肝心の走りに関しては、エンジンを大幅に見直し。従来通りのRB25DE(T)ながら「ネオ・ストレート」と呼ばれるエンジンに生まれ変わりました。そして、2.5ターボはついに280馬力にパワーアップとなりました。
また、タイヤも17インチにサイズアップされました。また、これにあわせブレーキも強化、17インチ用の4ポットキャリパーが装着されました。
そして、ボディは「ドライビング・ボディ」と呼ばれるダイナミックボディ剛性を重視した、世界トップレベルのボディ+シャーシが一体開発されました。

CMも、ヴァンヘイレンの「You really got me」を採用、ハードイメージをアピールしました。そして全面に押し出されたのはセダンです。いまだかつて、セダンの車の宣伝にハードロックが採用されたことはあったのでしょうか。キャッチコピーも「ボディは力だ」というもの。シャーシを映し出してボディ剛性のよさを強調すると言う、とにかく機能アピール重視のコマーシャルでした。
4ドアセダンは、スカイラインの持ち味であるキビキビとした走りを実現しながら、セダンに要求される居住性と実用性をバランスさせました。

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5代目GT-R(BNR34)1999年1月発売

1998年の年末が近づくにつれ、5代目GT-Rに関する情報が各誌にスクープされるようになりました。10代目スカイラインにGT-Rがあることは、事前に渡部主管自身の口から公表されていたので、ファンの期待はスクープ情報が入るたびに高まりました。ニュウルブルクリンクでの走行シーン、国内テストコースの走行シーンなどで走る新型Rの精悍な姿はかなりのパフォーマンスを期待させるに充分でした。しかし、そのスクープのされ方に少し疑問を抱かざるを得ない一面もありました。各地でなんの覆面もないまま、いかにも「この形で出します」と言うかのように走るRの姿は、スクープと言うよりは、既に「コマーシャル」であるかのようでした。
当時の日産は経営内容が深刻な状況でした。売れない車をいつまでも売るような余裕はなく、いかにGT-Rがイメージリーダーカーと言っても、売れないままではもはや済まされません。更にエネルギー問題や、環境問題が、GT-Rの様な、高パフォーマンスカーにとって向かい風になりつつあるなか、「スクープ」言う名のCMにかり出されるGT-Rに、私は悲壮感すら感じました。

1999年1月、4年前を思い出させるかのように、5代目GT-Rが「東京オートサロン」で発表されました。

コンセプトは、今までと同様「究極のドライビングプレジャーの追求」でした。あらゆるシーンで最上級の走りを提示し、安心感をベースにした意のままの走りを実現しようというのが開発における目標でした。

スタイリングは2ドアクーペをベースにしながらも、ルーフとドア、トランク以外は専用設計です。ボリュームを増したボンネットフード、大きく口を開けたインテーク。大きく張り出したフロント・リアフェンダー。そして、専用設計となる2枚翼のリアスポイラー。ホイールベースは2ドアクーペと同様55ミリの縮小ながら、ボディサイズは全長75ミリの縮小となりました。全幅は逆に5ミリ拡大。このようにチューンナップされたボディはこれまでのスクープ写真で知らされていたものの、極めてアグレッシブで、R33に対する反省が生かされていると言えます。
バリエーションには先代同様、Vスペックが用意されています。Vスペックで特筆すべきはフロントディフューザー・リアデュフューザーと言われる「アドバンスドエアロシステム」で、ダウンフォースを発生させるためにボディ下部に導風板を装着するという、徹底振りです。
コックピットを空け、室内に入れば、新しくデザインされたシートが目に入ります。3代目、4代目GT-Rと受け継がれてきたモノフォルムシートを基調にデザインを見直し、肩のサポート部を拡大、更にホールドを高めています。又、タコメーターは中央に配置、Vスペックにおいては3000回転までを切りつめ、それ以上を見やすくすると言った気の配りよう。センタークラスターには従来の3連メーターに代わり、「マルチファンクション・ディスプレー」と言われる7項目のデジタルメーター(Vスペックでは9項目)が位置しています。そして、先代でも導入されると言われながら導入されなかったゲドラグ社との共同開発による6速トランスミッション。シフトノブも短く、操作性の良さを感じます。
エンジンルームを空ければ、真紅に塗られたRB26が目に飛び込みます。基本的には従来通りのエンジンではありますが、細部を見直し、ターボもボールベアリング式セラミックツインターボとし、今まで以上にレスポンスが鋭くなっています。
タイヤは245/40/18インチ、ホイールも6本スポークとなり1本当たり1キロの軽量化が図られました。
渡部主管は「最新のスカイラインが最強のスカイライン」と宣言しました。こうしてスカイラインGT-Rは「究極のドライビングプレジャーの追求」に向け、又一歩進化したと言えるでしょう。

と、ここでGT-Rが元々、「レースのためのベースマシン」としての存在であったことを思い出さずにはいられません。R32で大成功したがために、次の世代になりながらも先代を上回る走りを実現するのに時間がかかり、登場が遅れざるを得なかったR33の登場からちょうど4年でのR34Rのデビューは、スケジュール通りとは言えます。しかし、この10年で、時代も、車を取り巻く環境も、レースシーンも変わりました。もはやGT-Rはレースで勝つのが当たり前の存在ではありません。この車はR32で復活したことにより、「レースのためのベースマシン」としての存在から、日産車の代名詞として、最高性能、最高の走りを実現するフラッグシップカーとして、そのアイデンティティを方向修正しました。そして、R34GT-Rの精悍な、マッチョなフォルムは、「スーパーウエポン」であることを何より物語っています。もはや、「羊の皮を被った狼」ではないのです。「最高の走り」と言っても、GT-Rが高性能化するにつれ、その性能を発揮する「一般道」は少なくなり、フルに発揮できるのは、レースシーンにおいてのみとなっていきました。それなのに、売らんかなの装備の数々、そんなGT-Rのあり方に疑問を感じざるを得ませんでした。

2002年、スカイラインGT-Rの最終形、MspecNurが発売。
8月までの期間限定発売となり、8月をもってスカイラインGT-Rは生産終了となりました。

2001年6月、上記MspecNurと順序は逆になりますが、新型スカイラインは「V35型」として登場しました。しかし、そのデザインは永年培われたスカイラインのコンセプトとはほど遠く、又仮に他の新型車として見ても見るに堪えないデザインとなってしまいました。ゴーン体制で大量の新型車が登場しましたが、デザイン・売上共にその中でも最大の失敗作と言えるのではないでしょうか。
V35型のデザインやシャーシは、元々新型レパードとなる予定だったものを、レパードを生産終了したため、スカイラインに流用したと言われています。その丸みを帯びたデザインにスカイラインのアイデンティティは感じられません。
2003年、スカイラインクーペが登場。セダンに比べればまともなデザインとは言えるものの、大型化し、鈍重さは否めませんでした。

このV35型でスカイラインは終わった、と私は実感しました。

そして、2007年12月、日産は「日産GT-R」を発表しました。
「スカイラインGT-R」の名を使うべきかどうか、かなり議論がされたと聞きます。しかし、「日産GT-R」で良かったと私は思います。余りに大型化され、日産自身「スーパーカー」と呼んではばからない車は、かつてのスカイラインGT-Rとは全くの別物と思うからです。

いつか、真のスカイライン復活と喝采を上げられる日が来るまで、私は待ち続けたいと思います。

to be continued

# by sk_gtr | 2020-02-09 12:44 | スカイラインの歴史

スカイラインの歴史 第10部 再迷走

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9代目スカイライン(R33) 1993年8月発売

「卓越した走りの本流グランドツーリングカー」をコンセプトとした9代目スカイランが発売されました。あまりに高い評価を得たR32ではありましたが、確信犯であったとはいえ、「狭い」がゆえ、特に4ドアが売れなかった事の反省から、ボディを大幅に大きくしました。ついにスカイラインは全車3ナンバーとなったのです。ボディの大型化により、4ドアセダンには豊かな居住性と快適性が備りました。しかし、2ドアは、当初ホイールベースを4ドアより短くする予定だったのに、最終段階になってコストダウンのため、4ドアと同一へと変更、このため、写真でも分かるように、2ドア車のドアから後ろは何とも間延びしたデザインとなってしまったのです。デザイン的にも、なぜこんな不細工なのかと首を傾げたくなるようなフロント・リアデザイン。
走りの性能や剛性・居住性はR32の反省から向上したとは言え、あまりに大きく、重々しく、不細工になったスカイラインに対してファンは「やはりスカイラインはR32までか」という思いを強くします。

キャッチフレーズは「あした、スポーティに生きる」、俳優のジャン=マルク・バールとモデルの田村翔子をイメージキャラクターに採用、山下達郎の「ジャングル・スイング」(後に「悲しみのJODY」)をCMソングにソフトなイメージを演出しました。
一方、こうしたソフト&ワイドな、本来のスカイラインとはコンセプトを異にするR33型は不評を極めることとなりました。

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1995年1月4代目GT-R発売(R33)

東京モーターショーから1年2ヶ月後、「東京オートサロン」にて遂に新型GT-R発表。発表の場が「改造車のショー」でした。ファンの期待と不安を背負ってのデビューでしたが、デザインはモーターショー出品車に比べ大幅に精悍さを増しました。
新型GT-Rの使命は、先代R32GT-Rを越える車となり、「究極のドライビングプレジャーを追求した、世界最速の量産車」となることにあります。そして、初代、先代に引き続き、新たなる神話を生むことによってのみ、GT-Rであり続けることが出来るのです。R32GT-Rを越えたことを演出する舞台に、ドイツのニュウルブルクリンクサーキットのオールドコースが選ばれました。ここで8分を越えるラップタイムを刻むことが目標とされたのです。先代は初期型で8分20秒、最終型で13秒でした。8分を越えるのはジャガーくらいと言われた難コースにおいて、新型GT-Rは7分59秒を叩き出したのです。
後にこのラップタイムはほとんどレース仕様とも言えるようなチューンドマシンであることが判明、神話・伝説と言うよりは「作り話」のようなものであると揶揄されるのですが、新型GT-Rはこの「マイナス21秒ロマン」をCMのキャッチフレーズにまでし、いかに先代を上回るポテンシャルを有しているかを訴えました。まあ、それだけ先代が偉大だったと言うことでしょうか。

CMと言えば、GT-Rがコマーシャルに登場すると言うこと自体、当時は妙な感じだったものです。

先代のピーキーなフィーリングがなくなってマイルドになったとか、重く・大きくなって鋭さがなくなったとか、デブになったとか、96年以降勝てなくなったとか言われましたが、様々な点において、新型GT-Rが先代を上回っていたことは事実です。ベースモデルが既に先代VスペックⅡ並のポテンシャルを備え、更にこれを上回るVスペックを設定。これに加えN1仕様も用意するなど、戦闘態勢は万端でした。そもそも、先代GT-RはグループAの為のベース車でしたが、新型はN1レースのベース車。つまり、ノーマルでのスペックが高くないと戦えないのです。このために各部に手が加えられました。エンジン制御のコンピュータは8ビットから16ビットへの性能アップにより演算機能向上。最大トルクは1.6Kg向上。アテーサETS「プロ」の採用。このほかにも細部にわたって改良が重ねられ、新型GT-Rは大きな進化を遂げました。しかし、マイルドになり、洗練されていくGT-Rに、「GT-Rはもっと荒々しい車でなかったか」という疑問もわき上がってきたのです。

それにつけても新型GT-R、エンジン、サスペンション形式、シート形状、アテーサやHICASなどの先進機器etc...、様々な点において、先代を踏襲していたことが、いかに先代の設計が優れていたかを何より物語っています。

1996年1月、33型の大きな反省と共にマイナーチェンジが施されることとなりました。CMも牧瀬里穂による「男なら乗ってみな」という過激なキャッチフレーズ、CMソングにはハードロックの「BORN TO BE WILD」が採用され、スポーティなイメージを作り出すのに必死でした。
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マイナー後の2ドアと4ドア

スタイリングに対する悪評がこたえたのか、デザインが大幅にスポーティとなった新スカイラインが登場しました。CMのキャッチフレーズも牧瀬里穂による「男なら乗ってみな」という挑発的なもの。マイナー前を買った人はどうなるの、と言うくらいのイメージチェンジでした。(マイナー前のCMは山下達郎「アイラービュー]というもの) このことは、日産に迷いがあったことの何よりも証といえます。この代は失敗だったな、間違いなく次は小さくなるな、とファンが思わないわけがありません。
なお、GT-Rのスタイリングは基本的には変わりませんでしたが、フロントバンパーにエアインテークが追加。更に精悍さが増しました。

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1997年10月 オーテックジャパンが4ドアGT-Rを発表。

# by sk_gtr | 2020-02-09 12:36 | スカイラインの歴史

スカイラインの歴史 第9部 栄光の復活

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8代目スカイライン(E-HCR32)1988年5月発売

1988年、8代目スカイラインがついに発売。7代目スカイラインクーペが発売されて3年ほどでのスピード・フルモデルチェンジでした。開発スタッフの、これまでのスカイラインに対する不満(反省?)と開発に向けての勢いを感じることが出来ます。キャッチフレーズは「超感覚スカイライン」、イメージキャラクターを採用せずCMソングには「哀愁のランバダ」(そう言えばランバダはやりましたね)が使われました。
8代目スカイラインの大きな特徴は、下記の2点にあるといえます。
1、ボディサイズを大幅に縮小する。
2、数々の最新メカニズムを惜し気もなく投入し、走りの性能とテイストを世界最高水準にまで高める。たとえば、4輪マルチリンクサスペンション、SUPER-HICAS、アルミキャリパー対向ピストンブレーキなどの先進機器類が投入されました。最上級車種、2000GTS-tはセラミックターボを搭載し215馬力を発揮。4ドア車も「4ドアスポーツセダン」と呼称するなど、いかにスポーツイメージにこだわっていたかがわかります。
こうしてスカイライン、特にGTS-tタイプMは、「真のドライビングプレジャー」を持ったFR車となりました。発売後、「狭すぎる」といった評がよく聞かれましたが、そもそも狭く造っているのです。

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3代目 GT-R(BNR32)1989年8月 発売

1989年8月、満を侍してGT-Rが発売されます。まさに16年半振りの復活です。
新型GT-Rは、復活を待ち漕がれたファンの希望に100%応えるものとなって登場しました。
GT-Rの使命は第一に、初代GT-Rがそうだったように、レースを席巻して再びGT-R神話を蘇らせること。GT-Rは、レースのためのベース車であると言う思想が貫かれています。そして、もう一つは、全日産車のフラッグシップカー、技術的シンボルとして君臨すること。
専用エンジン(RB26DET)はRB20DEをベースにはしながらも、全く別ものと言えるほどの手を加え、徹底的にチューンが施されました。
排気量は2600CC(2568CC),セラミックターボを2基装着、280馬力を絞り出しましたが、レースにおいて600馬力を可能にするための様々な手当がされており、市販車はいわば「ディチューン版」といえました。排気量が中途半端なのも、グループAでの重量制限で、3Lターボ車に対するアドバンテージを確保するためです。そして、GT-Rに与えられた使命を果たすべく、実に多くの機能が盛り込まれました。幾つか具体的に列挙すると、一目で分かる超大型インタークーラー、駆動状況に応じて適切に前輪にも駆動力を配分する電子制御トルクスプリット型4輪駆動システムATTESA E-TS、スーパーHICAS、4輪ABS、クーリングホール付大径ベンチレーテッドディスクブレーキ、鍛造アルミホイール、16インチ225・50タイヤ、4輪マルチリンクサスペンション、アルミ製ボンネットフード&フェンダー、6連スロットルチャンバー、ナトリウム封入中空エキゾーストバルブなど、採算割れを覚悟の上でレーシングマシン並みのスペックを盛んだのです。走りをサポートするシートもレーシングライクなバケットタイプ。ステアリングもとても純正とは思えない優れたデザイン、インパネ周りもGTS系を基調にしながらも、3連メーターを追加し、タコメーターを最高1万回転としたスパルタンなもの。車全体に「走り」のイメージが溢れています。

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スカイラインGT-R GROUP A

GT-R発表と同時に公開されたレーシングバージョンの精悍な姿は、ファンを驚喜させました。そしていよいよ新型GT-Rは1990年のシーズンから全日本ツーリングカー選手権レースに出場し、全レースを制覇、翌91年以降もグループAで連勝を重ね、グループAの規定がなくなるまでに29戦29勝、29戦予選1位と言う不敗神話をつくりました。ライバルを失い、グループAは事実上GT-Rのワンメイクとなってしまったため、1994年からはグループAに代わり全日本ツーリングカー選手権(JTCC:2L以下、NAエンジン)、全日本GTカー選手権(JGTC:旧グループA)が行われることになりましたが、その後もGT-Rは活躍を続けます。グループAだけではなく、N1耐久レースにおいてもGT-Rは活躍しました。N1はあくまで市販車をベースにして戦うレース。改造範囲が狭いだけ、市販車の性能が問われます。
レースが進むにつれてGT-Rの欠点が指摘されるようになります。それは主にブレーキ容量の不足、シャシーへの負担など、4WD化に伴うヘビーボディから起因するものでした。このことが後のマイナーチェンジでの改良、R33型の開発に生かされることになります。

1991年7月GT-R マイナーチェンジに伴い、N1ベースモデル発売。
1992年2月GT-R Vスペック発売。イタリアブレンボ社との共同開発によるブレーキ、BBS17インチホイール(RG)等を搭載。N1レースでの教訓が市販車両にも生かされることになりました。
1993年8月R33型スカイライン発売。(第10部にて詳述)

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1993年10月 東京モーターショーにてR33型GT-R参考出品。
ぼってり太ったボディ、リアウイングなどは賛否両論でした。

1994年2月GT-R VスペックⅡ発売。タイヤは225/50/17インチから245/45/17インチにサイズアップ。この時点で、GT-Rはまだ、フルモデルチェンジされていませんでした。

# by sk_gtr | 2020-02-09 12:19 | スカイラインの歴史

スカイラインの歴史 第8部 迷走のR31

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7代目スカイライン(R31型) 1985年8月発売
RE20型エンジン(1998CC)搭載 210馬力

「やわらかい高性能」「ソフトマシーン」「都市工学」というキャッチフレーズで4ドアハードトップ・セダンのみがまず登場しました。
高級スポーツサルーンという位置付けだったのですが、これは「マークⅡ三姉妹」に代表される巷間のハイソカーブームに乗っかろうという魂胆が見え見えでした。
エンジンは新開発のRB20型(165馬力)を採用。永年続いたL20型に別れを告げることになりました。ターボを搭載したRB20DET型は210馬力を発揮。ケンメリGT-R以来の6気筒DOHCエンジンを搭載し、ファンを大いに期待させましたが、実際はスペックほどのパワー感もなく、さりとてハイソイメージも今一つと言う、中途半端な車でした。HICASという、後輪操舵システムを採用したものの、走りを向上させるほど優れたシャーシでもないため、大きな効果は見られませんでした。何よりも2ドアがないと言うことは、ファンを落胆させるものだったのです。確かに、元々スカイラインは4ドアでした。しかし、きびきびとした走りも実現できずに、周りで4ドアがはやっているからと言って4ドアのみを先行デビューさせたことに、ファンはもはやスカイラインの必然性はないと感じました。

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1986年5月、2ドアクーペGTS、
セラミックターボ搭載のGTSターボ(E-HR31型)を発売。

4ドアで落とした評判を回復させるべく、スポーツイメージを押し出してのデビューとなりました。キャッチフレーズは、「そのとき、精悍」。イメージキャラクターは、岩城晃一を採用、「エリーゼのために」をハードロックにアレンジし、ハードなイメージを前面に押し出しました。
エンジンフィールも別物ではないかと言われる位、4ドアに比べ向上しました。エンジンの出力表示がグロスからネットに変更となりましたが、GTSで140馬力、ターボは180馬力を発揮。翌年のマイナーチェンジでは各10馬力のパワーアップが図られ、4ドアに比べスポーツイメージが強くパワーもある2ドアは人気を博しました。しかし、代替わりの度に大きくなるスカイラインに、果たして、これでいいのか、これがスカイラインのあるべき姿なのかと、ファンはむろん、開発スタッフも疑問を感じるようになってきたのです。

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スカイラインGTS-R

1987年8月のマイナーチェンジと同時に発売されたのがGTS-Rです。
これはグループAツーリングカーレースのためのベース車両として発売されたもので、販売台数も800台に限定されました。RE20DETをベースにギャレット製のTO-4型大径ターボを搭載し、210馬力を発揮しました。
レース用車両が発売される、というニュースに、ファンはGT-Rの復活を期待しましたが、そうは成りませんでした。このことは、GTS-Rが、レース用マシンとして十分なものではないことを何より物語っていました。
まだ、この程度ではGT-Rを名乗れない、ファンはGT-Rの偉大さを改めて感じるとともに、GT-Rがまだまだ遠いところにあることを痛感せざるをえなかったのです。
しかし、このGTS-Rで日産は多くのノウハウを蓄積しました。次のステップに向けて。

7代目スカイライン開発途上、永年指揮を取って来た桜井真一郎氏が急病により降番した為、伊藤主管に交代となりました。伊藤主管はR31の反省を込めて、8代目スカイラインの開発では、スカイラインの原点に帰り、真のスカイラインスピリットをもった車をつくることを目指しました。
それは、走りの性能を究極にまで高め、走りのテイストを追求することによって到達する、究極のスポーツセダンの姿に他なりません。
スカイラインがハイソカーなんぞであってはならない、と言う反省があったのです。

時はバブル絶頂期、日産にはお金もありました。ヒト・モノ・カネを惜しげもなく投入し、8代目スカイラインの開発は進められていったのです。

# by sk_gtr | 2020-02-09 12:08 | スカイラインの歴史